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歴史文化財
治水のあしあと
主な治水史跡
治水のあしあと 千本松原 千本松原千本松
 揖斐川と長良川の背割堤1km余にわたって、連綿と連なる松並木。この松の種類は日向松で、薩摩藩士が宝暦5年、治水工事の完成直後に千本の苗を植えたものと伝えられています。
 千本松原の南端には宝暦治水工事を記念して建立された宝暦治水碑があり、その工事の悲しい史実を語っているかのようです。木漏れ日の中、緑に染まる松林の石畳を歩くと、かつてここに熱く雄大なドラマが演じられたことが不思議に思えるほどの静けさが漂っています。この一帯は国の史跡に指定されています。
治水神社
 宝暦治水工事の責任者、薩摩藩家老平田靱負を祭神とする治水神社。
 昭和2年の着工以来、実に10年の歳月かけて完成しました。決死の覚悟で国土の安全を図り、災害にあえぐ輪中の人々を救ってくれた義士たちの偉業は広く共感を得たのでしょう。その檜造りの荘厳な社と緑陰を宿す松林には、人々の義士への感銘が宿っているようです。神社の北西側、朱色の隼人橋を渡ったところには治水観音堂があります。御堂には治水観音大菩薩の御像と、その慈翼に工事の犠牲となった薩摩
治水のあしあと 治水神社
 治水神社
義士の位牌が祀られています。
 毎年春(4月25日)と秋(10月25日)には義士の遺徳を偲び、慰霊祭が行われています。鹿児島からも多数の方々が参拝に訪れます。
義士堂(宝暦治水観音堂)
 薩摩義士の遺徳をたたえるため、昭和27年に建てられました(昭和58年再建)。本尊は高さ約1mの中国渡来の観世音菩薩像(木彫)で、海津市有形文化財に指定されています。
毎年10月25日の治水神社秋季大祭はこの義士堂で行われます。
治水のあしあと 宝暦治水観音堂治水のあしあと 治水観音菩薩像
 宝暦治水観音堂 治水観音菩薩像
大榑川洗堰跡
 濃尾平野は西の養老山地に向かって緩やかに傾斜しており、そのため木曽三川の河床も木曽川・長良川・揖斐川の順に深くなっています。 大雨が降ると木曽川の水が長良川に逆流してよく洪水を起こしました。そのため長良川の水が揖斐川に流れるよう大榑川を改造しましたが、揖斐川付近の村は逆に洪水が増える結果となりました。そこで、地元の要望で喰違洗堰が造られ、のち薩摩藩のお手伝い普請により洗堰が造られました。
治水のあしあと 大榑川洗堰跡
 大榑川洗堰跡
 しかし、これもまた洪水で壊れ、自普請で大榑川洗堰を造ったのです。この洗堰は1899年河川改修によって取り壊されましたが、1997年の調査により、勝賀の畑地や長良川右岸の河川敷などから石積みの遺跡の一部が発見されました。

治水のあしあと 羽根谷砂防堰堤
 
羽根谷砂防堰堤

羽根谷砂防堤(南濃町羽沢)
 昔から羽根谷に大雨が降ると、土砂を含んだ水が揖斐川に押し出されて推積し、川の流れをせき止め、水害を引き起こしていました。日本の国土改修事業の指導者として政府が招いた「御雇い外国人」の1人、オランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケは、明治6年より日本各地の港湾整備や河川改修に携わり、木曽三川分流改修工事の一部として明治21年、羽根谷砂防堰堤を施工しました。
 この堰は現在でもその機能を十分に発揮し、下流域の土砂災害防止に大いに役立っています。工法は巨石空積で堤長52m、堤高12m。明治時代の石積み砂防ダムをしては最大規模で、100年余の時を経ても構造に大きな狂いがありません。
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記念碑
宝暦治水之碑(油島)
 薩摩藩による宝暦の御手伝普請(宝暦治水)の功績を後世に伝えるため、明治33年成戸の締切堤上で行われた三川分流成功式典のあと、場所を移してこの碑の除幕式が行われました。建立に奔走した西田喜兵衛をはじめとする地元の篤志家の悲願でもありました。
治水のあしあと 宝暦治水碑
 宝暦治水之碑
治水のあしあと 三川分流碑三川分流碑(成戸)
 ヨハネス・デ・レーケの計画・指導によりすすめられた木曽三川改修工事の完成を記念して、大正12年に建てられました。石組みの台の上に高さ4.5m・幅1.8mの碑があります。
 三川分流碑
近代治水百年記念碑(油島)
 明治の三川分流工事着工(1887年)から100周年を記念して、先人の遺業と治水の重要性を広く訴えるために建てられました。横2m・縦1m・高さ50cmの台座には、治水の恩人平田靱負とヨハネス・デ・レーケのレリーフがはめ込まれています。
治水のあしあと 近代治水百年記念碑
 近代治水百年記念碑

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