かいづのれきし

貝塚(かいづか)と古墳(こふん)

 海津市南濃町(かいづしなんのうちょう)では、庭田貝塚(にわだかいづか)と羽沢貝塚(はざわかいづか)の2つの貝塚が発見されています。庭田貝塚は小高い丘の上にありますが、マガキを主とした海で採れる貝類をはじめ、動物の角や骨などが発見されています。羽沢貝塚はヤマトシジミを中心に、縄文(じょうもん)、弥生(やよい)時代の土器(どき)や人骨(じんこつ)が発見されています。
 また、海津市南濃町には、岐阜県内で最古(さいこ)クラスと言われている円満山古墳(えんまんじやまこふん)など100基(き)を超(こ)す古墳があります。

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羽沢貝塚(はざわかいづか) 円満寺山古墳(えんまんじやまこふん)

 

 

輪中(わじゅう)

 木曽(きそ)・長良(ながら)・揖斐(いび)の3つの川が集まるこの地域(ちいき)は、大昔(おおむかし)から多くの水害(すいがい)に見舞(みま)われてきました。この水害から身を守るために、人々は周(まわ)りに堤防(ていぼう)を築(きず)きました。これを輪中と呼んでいます。
 外からの水は堤防で防(ふせ)いでいたのですが、輪中の中にいったん水が入ると排水(はいすい)できなくなり、1ヶ月以上も水が引かないこともありました。
 輪中の歴史は、水との闘(たたか)いの連続(れんぞく)でしたが、人々は苦しみに耐(た)え希望(きぼう)を失わず、水から生命(せいめい)と財産(ざいさん)を守り続けました。今も屋敷(やしき)の一部を高くして建(た)てられた「水屋(みずや)」や水屋を持つことができなかった農民(のうみん)たちの洪水時の避難(ひなん)場所である「助命壇(じょめいだん)」など独自(どくじ)の生活文化(せいかつぶんか)を見ることができます。

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助命壇(じょめいだん)

 

宝暦治水(ほうれきちすい)

 宝暦3年(1753)12月に木曽三川(きそさんせん)を分ける工事(こうじ)をするためのお手伝(てつだ)い普請(ふしん)が薩摩藩(さつまはん)に命(めい)じられました。
 宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて、総奉行(そうぶぎょう)の平田靱負(ゆきえ)をはじめとする、およそ1,000人の藩士(はんし)を派遣(はけん)して大がかりな治水工事(ちすいこうじ)が行われましたが、40万両(まんりょう)という膨大(ぼうだい)なお金がかかり、また約90人の犠牲者(ぎせいしゃ)が出ました。海津市内には、亡くなった藩士を供養(くよう)するお墓(はか)が数ヵ所あり、地域(ちいき)の人たちによって大切に守られています。
 また、その薩摩藩士の偉業(いぎょう)をたたえて建てられた治水神社には、多くの人々が参拝(さんぱい)に訪れます。

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千本松締切堤(せんぼんまつしめきりづつみ) 治水神社(ちすいじんじゃ)