船岡山と称されていたこの丘に、はじめて城を構えたのは瀬戸道明寺(知行1万8千貫)で正暦年間(990~994年)のことであったといわれます。文治、建久年間(1185~1198)には、守護職土岐光衡、光行が南濃の要地として城を築き、守将を置きました。
その後、土岐家歴代の家臣が守っていましたが、天文11年斎藤道三の家臣高木彦左衛門に攻略され、この時より彦左衛門が居城しました。織田信長が、永禄7年9月斎藤龍興を滅ぼし、領国巡視を行った際に駒野城に入ったと伝えられ、信長没後、駒野城は反秀吉方となり、天下が秀吉の手中に入ったため高木一族は退散しました。
慶長5年関ヶ原合戦の際、石田三成が此地を巡察し桑名より大垣への守りのため塁壁の構築を命じたといわれます。
また、「寛政重修諸家譜巻第1105」の徳永氏の項には、松ノ木城主徳永寿昌は「関ヶ原合戦のときは池田伊予守秀氏が籠れる美濃国駒野の城を攻む」とあり、駒野城には池田秀氏なる石田三成方の武将がいたことになりますが、はっきりせず、それ以後は廃城になりました。
江戸時代は高須藩の所有になり、明治35年1月旧藩主松平義生氏より、城山村教育基本財産として寄付を受け、城山小学校として今日に至っています。
氏家ト全は、戦国末期大垣城にあって織田信長に仕え、西美濃三人衆とよばれた一人で有力な領主でした。
元亀元年伊勢長島で勢力を誇っていた願証寺の門徒六万余は織田信長に反抗していた石山本願寺の命に応じ尾張に攻め込んで織田信興(信長の弟)を滅ぼしました。いわゆる長島一向一揆です。
翌年5月信長は長島攻略のため出陣しましたが、その際ト全は川西(多芸山太田口)に柴田勝家らと共に布陣しました。これに対し長島門徒の反撃は激しく、氏家勢は敗退し、追撃をうけたト全は5月22日石津郡太田郷安江村七屋敷で戦死しました。時に59歳でした。
養老鉄道美濃山崎駅から南約800メートル程の線路東側にト全を葬ったといわれるト全塚があり、また、ト全の首を洗ったと伝えるト全沢の碑が安江地内に残っています。
南濃町上野河戸には、官山と御山(行基寺山)およびその山麓に古墳群がみられます。
行基寺古墳の跡地は現在見晴し台となっていますが、昭和13年5月に、鏡四面(内行花文鏡・神人鏡・四獣鏡・変形文鏡)、勾玉、管玉、釧などを出土しており、四世紀末頃に比定される古墳です。
行基寺本堂の西上方に径約5メートルの円墳があり、また官山の古墳は、蜜柑畑となり消滅しています。
(現在、非公開です)
揖斐川の左岸船渡(海津市平田町)と右岸大巻(養老町)の間に設けられた道標。
陸上交通の発達していなかった時代には河川は重要な交通路であり、揖斐川は名古屋・桑名・大垣を結ぶ大切な要路でした。
今尾渡し道標は、渡船場の道しるべとして人々の旅を見守っていました。
津屋城は、関ヶ原合戦まで高木八郎左衛門が居城していましたが、慶長5年(1600年)関ヶ原戦の時、石田三成方(西軍)に従ったため没落し、廃城となりました。八郎左衛門は記録(円満寺記録・堀田家文書)によれば、高須城主高木十郎左衛門の縁者であったそうです。慶長8年(1603年)に当時の領主であった高須城主徳永法印寿昌の許しを得て、この城跡へ本慶寺を移しました。従って津屋城跡は現在本慶寺の境内を主郭とした付近一帯ですが、道路が通じ住宅が建ち或いは畑や林となって全容を明らかにすることはできません。
主郭部南側に長さ67メートル、西側に54メートルの鍵形をなす空堀が残されており深さは2.3メートル~3メートルあります。主郭をめぐる堀の内側には土塁がめぐらされており、南側と西側にはその遺構が残っています。特に西側は長さ33メートル、基底幅4メートル、高さ1~1.5メートル、馬踏幅1メートルでほぼ旧状をとどめています。
養老山地の東麓、庭田集落をとり囲んで北に延びる支丘上、標高96メートルの位置にある南向きの前方後円墳です。全長60メートル、後円部直径35メートル、高さ5メートル、前方部幅約19メートル、高さ1.5メートルあり、自然の丘陵に若干手を加えた程度であって、前方部の低い狭長な古墳時代前期様式を示しています。
昭和42年8月に発見され同年12月に発掘調査されました。石室は主軸に平行につくられた河原石積みの竪穴式石室で、長さ4.67メートル、幅0.9メートル~1.2メートルです。石室床面は平坦で、この上に木棺がおかれたようです。
副葬の遺物は鏡三面(三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡、三角縁唐草文帯天王日月二神二獣鏡、画文帯神獣鏡)、直刀3、剣2、鎗1、鉄鏃5、鉄斧2、不明尖頭鉄器1で玉類や石製品を含んでいません。
外形の形態や主体部の構造および出土遺物の観察から、築造の年代は四世紀中葉から後半期にかけてと判断されました。しかも、竪穴式石室の構造や副葬された三面の鏡からみて、この古墳の被葬者が畿内地方の政権と何らかのつながりのある地位にあったことも推察できます。
狐平古墳は、標高約100メートルほどの山の中腹にあり、眼下に濃尾平野を一望できる場所につくられています。
全長4.7メートル以上の横穴式石室で、奥に棺を納める玄室があり、その前に羨道と呼ばれる通路がつくられています。正式な調査が行われていないため、古墳の形や副葬品は明らかではありませんが、6世紀半ば頃に比定される古墳です。
明和6年(1769年)、志津村で村財政について村役人と村民の間に騒動が起きました。志津村の百姓3名が、村財政に不正があるとして村役人4名を訴え出たのです。吟味の結果、村役人の不正が判明しましたが、百姓の訴え方にも問題があるとして喧嘩両成敗の形で合わせて7名が、翌年3月6日死罪となりました。11年後の安永9年、村から7名の墓を建てることを願い出て許され、子孫や地域住民によって「六日講」として祀られ続けています。
東太夫は、弘化元年(1844)大里村に生まれました。当時の大里は扇状地のやせ地で作物の収穫が少なく住民の生活は苦しかったのです。明治5年(1872)28歳の時に、みかんの産地紀州を視察し地形、気候等が当地とよく似ているのに着目し、明治12年和歌山の有田絡みかん苗200本程購入して、大変な苦労と費用をかけて栽培育成に努力しました。東太夫は確固たる信念を持って、みかん園の造成に尽力された結果成功し、石津みかんとして好評を得、明治末期には米作の3倍以上の収穫を上げ、生産量も年々増加して、毎年巨額な収入を得ることがました。後、大正6年(1917)に73歳で永眠されましたが、人徳を偲んで農民有志により顕彰碑が杉生神社境内に建立されました。
出来山古墳は、養老山地断層崖下に立地する横穴式円墳を主とする古墳時代末期の群集墳で、標高105mを測り、眼下には揖斐川を始め、濃飛平野を一望できます。調査概報によれば、羨道部および石室前方部が破壊されており、東南東に開口。奥壁部分より鉄鏃7点、刀子3点(鹿角装刀子1点)、人骨、人歯(大白歯等)6点、管(出雲石)6点、小玉4点で、須恵器は破片10数片が出土しました。石室の高さは奥壁部で2.15m、幅は1.23m、石室中央部1.42m、奥行は2.55mです。しかし、平成元年の石室実測調査によれば、現存する古墳は1号墳とは異なり、別の古墳(3号墳)として報告されています。これによると、内部主体は、全長7.35mを測る両袖式の横穴式石室で東方向に開口、玄関部には床面に梱石があり、玄室と羨道とを区別しています。築造年代は6世紀中期後半と推察されています。なお、出土遺物については不明ですが、出来山古墳群出土とされる須恵器には6世紀後半のものが5点出土しています。
宝暦10年(1760)に徳永寿昌の150年忌に子孫が建立したものです。徳永氏は戦国末期に家康に従って大功をたて、高須城下の創生に関わった人物です。立長さ1.43メートル、下部口径0.775メートル、上部直径0.6メートル。
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